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【アラベスク】  第11章 彼岸の空



第3節 湖面の細波 [18]




 展望スペースを取り囲むフェンスに左肘を乗せ、左腕を立ててその掌に顎を乗せる。そんな、少しウンザリした様子の美鶴にツバサはハハッと気弱な笑い声を出す。
「その頃の私さ、結構スレてたからね。だからコウが恰好良く見えたのかもしれない」
「スレてた?」
 訝しそうに見上げてくる美鶴を、ツバサは急に真顔で見つめた。
「うん、今の美鶴と同じ」
 微かに瞠目する相手から視線を逸らし、ツバサは再び琵琶湖と、そしてその対岸を見渡した。
「スレてたって言うより、諦めてた」
 唐渓中学に入り、笑顔の下で腹の探りあいをする日々が始まった。駆け引きなしで付き合える友達も何人かできたが、それでも無邪気に楽しめるような学校生活ではなかった。
 特にツバサは、病院長を務める父親が複数の存在とライバル関係にある為、一部の生徒からは冷ややかな対応を受けた。小さな揉め事に巻き込まれる事もあった。ツバサがどんなに避けようとしても無理だった。
 仕方ないか。
 兄がいなくなって以来、両親は、特に母親はツバサに愛情を注ぐようになった。
 自分の希望はもはや聖翼人だけだ。
 父親の立場を継ぎ、立派な息子として世間に自慢できる存在だった兄が自分の手の内から逃げてしまったショックを、ツバサの存在で(まかな)おうとしているかのようでもあった。
 ツバサはそれなりには嬉しかった。だが、想像していたほど嬉しいとは思わなかった。
 あれほど兄から奪いたいと思っていた母の愛情を手に入れたというのに、この感情は何だろう? ポッカリと穴があいたような、寂しさとも冷たさとも違う感情。
 兄へ向けられていた期待を一身に受け、それに答えようと日々の生活をこなしながら、頭の隅からは唐草ハウスの存在が消えなかった。
 あの施設はどうなっているだろうか? 兄は今、どこにいるのだろうか?
 気がつくと、施設で見た兄の笑顔が脳裏に浮かんでいた。家で、母へ向ける貼り付けたような笑みとは違う、本当に楽しそうな笑顔だった。
 兄は、母の愛情など嬉しくはなかったのだろうか?
 ツバサはいつの間にか、母の愛情を重たいと感じるようになっていた。
 所詮自分は、兄の代わりにすぎない。
 そんな虚しさも生まれた。そして、それでも兄のように家を飛び出す事など到底できないだろう自分に諦めのようなものも感じていた。そんな時に蔦康煕に出会った。
 眩しかった。
 ほとんどやる気のない部員連中の冷たい視線を受けながら黙々と練習を続ける彼の姿が、ツバサには眩しかった。自分がやりたいと思う事、楽しいと思うものを胸に抱き、堂々と毎日を生活する姿が男らしく、頼もしかった。好きだと言われた時には本当に嬉しかった。
「でも、少し怖かった」
「怖かった?」
 美鶴の言葉に強く頷く。
「本当の自分をコウが知ったら、自分は嫌われるかもしれないって」
 コウはツバサの事を、明るくてサッパリしていて、楽しい女の子だと言ってくれた。そんなコウの期待に答えようと、ツバサは努力をした。
 期待に答えようと努力をするのは、小さい頃のお得意だ。
 だが、本当の自分は違う。本当の自分は、出来の良い兄をネチネチと妬み、自分を取り巻く環境に諦めて飲み込まれる、小さくて陰湿な人間だ。
 コウには嫌われたくない。
「変わりたいと思った」
 視線を上げる。少し霞んだ秋の空。
「お兄ちゃんみたいになりたいって、思った」
 思ったら、自然と足が唐草ハウスへ向かった。再び通うようになった。
 そんなツバサを、当然母は咎めた。そんな母親に、ツバサは面と向かって言ってみせた。
「慈善事業って、医者のイメージにはプラスだと思わない?」
 今でもビックリする。母へ向かってあんな言葉が言えるなんて。
 母の言いなりにはならない。
 対立するつもりはないけれど、好まない環境に飲み込まれたくはない。もっと兄のように、自分を強く持っていたい。きっと兄はそうだったのだ。(てら)うような事はしなかったが、きっと胸の内には強い意思を秘めていたに違いない。
 自分もそうなりたい。なぜならば、コウはきっとそういう自分を望んでいるはずだから。
「でも、全然ダメ」
 急に落ちた声のトーンに美鶴がチラリと視線を送ると、ツバサはフェンスを握る。ギシッと耳障りな音がする。
「全然変われてない」
 里奈とコウの関係を疑ってしまう自分。コウを信じきれていない自分。二人の仲を気にしているのかと問われ、気にしてはいないと答えてしまった自分。
 本当は聞きたい。なぜ二人が唐草ハウスの入り口で向かい合っていたのかを。だが、もう未練はないというコウの言葉に、流されてしまった。もし嘘でも、その嘘に騙されてしまった方が、楽だ。
 違う、コウは私を騙そうとしているんじゃない。
 頭の中が混乱する。
 コウは自分を信じていると言ってくれたのに。
「バカみたい」
 ツバサの頬を、涙が伝う。ギョッとして身を引く美鶴の目の前で、ツバサは両手で顔を覆った。
 そんなツバサを無様だと思う。情けなく、滑稽だと思う。自分はこんなふうにはなりたくないと思う。なのに美鶴は、どうしてだか、ツバサに対して小さな劣等を感じる。
「私、バカだ」
 震える肩。
「お兄ちゃんみたいになりたいだなんて、バカバカしくって、笑っちゃう」
「だから探してるの?」
 ツバサは強く頷く。そうしてしばらく肩を震わせた後、ようやく顔を両手の間から覗かせた。
「だから、美鶴の態度も許せなかった」
「え?」







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